私の履歴書

2012年6月24日 (日)

私の履歴書 その10

『私の履歴書』は随分久しぶりの更新です。

前回は去年の4月か。すっかり忘れてました。

さて、いよいよ教育業界への就職ですね。

2002年に星槎国際高校の採用試験を受け合格。

赴任先は芦別市にある本部姣。

四国を出て北へ北へ。これまでの北上距離をさらに更新することに。

親友には『次はロシアか?』何て言われました。

校舎は廃校を利用していて、冬はスキマ風で厳しい寒さ。体育館も木造で歴史を感じる建物。

色んな部分で不便さはあるものの、鉄筋造りよりもず〜っと愛着が沸く校舎でした。

共に働く先生や職員は毎年10人前後で、家族?戦友?のような存在でした。

勤務した6年間で数多くの人達(生徒、全国の学習センターの先生、保護者のみなさん、課外活動の業者の方々・・・)に出会い、学び、当時先輩だった、かみさんとも結婚しました。

芦別ではいろんな事がありました。とにかく濃い6年間。

愛媛で生まれ育った自分が、まさか異国の様に遠く感じていた北海道に住み、学校に勤め、青森の人と結婚するとは。

あらためて人生なんてどこでどうなるか予想もつかないなと感じたものです。

そう言えば、生徒からは『まめちゃん』、友人たちからは『まめ』や『まめさん』と呼ばれるようになったのもこの期間です。

勤務当初は、耳が隠れる程髪をのばしていたのですが、クセ毛でジャマだったこともあり、バリカンを購入していきなり坊主にしたんです。

それを見て、生徒が『豆みたいだから“まめちゃん”だ』と言いだしたのがきっかけで人生初のあだ名がついたのでした。

いまだにそのバリカンは健在。頭は坊主。

そして、いよいよ2008年3月に星槎を退職し、かみさんと生後半年の長女と愛犬ラックと共にフリースクールを開設する事になったのです。

つづく

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2011年4月24日 (日)

私の履歴書 その9

ずいぶん久しぶりです。

確か北海道上陸辺りからですね。

雪山生活最後のシーズン。

新潟の奥只見丸山スキー場の仕事が正月明けに一旦終了。雪が多すぎて3月までクローズ。

その間どうしようか?

そういえば、カナダで知り合った友人Kが札幌にいるぞ!

ということで連絡し、新年早々アパートに転がり込んだわけです。

新潟から苫小牧までフェリーで移動。

そこから札幌まで当時愛車のハイエースで移動。

確か吹雪いていました。

今ではすっかり当たり前ですが、積もった雪で道路の白線が見えなくて怖かったのを覚えています。

無事Kと合流出来、その日は他の友人と共に居酒屋へ。

さんざん飲んだあげく、気づいたら私はハイエースで1晩過ごしていました。

やたら寒いと思ったら、暖房設定なのに冷風が。

車に積んであったシャンプー達もカチコチに。

北海道の厳しさをまざまざと感じさせられました。

なんだかんだで1ヶ月ほど過ごした後ルスツリゾートへ。

住み込みで約2ヶ月間働きました。

これがなかなか厳しかった。

シーズン前に決まっていた仕事ではなかったので、スキー場ではなくレストランに配属。

食事には困りませんでしたが、滑る時間がなかなか取れず、早朝から夜中までひたすら働いていました。

その後3月末に再び新潟へ。

本当はその後愛媛へ戻る予定でしたが、父親から『北海道におもしろい学校があるぞ』との情報が。

家賃やら物価も安いし、都会と田舎があって住みやすく魅力的だと感じていた私は、新潟の仕事を終え再び北海道上陸。

その日のうちに、知人の紹介でアパートを決めました。

その後、選挙カーの運転手をしたり、札幌の某病院で勤めるなどしました。

そして2002年の29歳の時、父親から教えてもらった星槎国際高等学校へ勤務することになったのです。

つづく。

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2011年3月 5日 (土)

私の履歴書 その8

バタバタとしておりまして、約1ヶ月ぶりの『私の履歴書』です。

埼玉での暮らしが始まったところからでした。

川越市のスイミングスクールでは、ホントに色々よくしていただきました。

仕事も仕込まれ、仲間もでき、充実した毎日。

何度かの給料で、少しずつ生活も安定してきました。

そんなこんなで、24歳の5月ごろだったと思います。

趣味で時々やっていたスノーボードをやりに、スイミングの友人と一緒に鹿沢ハイランドスキー場へ行きました。春雪でシャバシャバでしたが、モーグルバーンのようなデコボコ斜面で初めてジャンプなどをして遊び、これまで以上にスノーボードにのめり込んじゃいました。

そして、その日を境に頭の中はスノーボード一色に。

次の年の正月明けから6週間。カナダのウィスラー&ブラッコムへ。

滑りをレッスンしてもらいつつ、現地のイントラの資格も取得し帰国。

その後は埼玉を拠点に、冬はスキー場で働き、夏は色々な仕事を転々と。

という暮らしをしてました。

夏の仕事は毎年色々やりました。

スイミングスクールにダイエー系列の配送センターでの深夜仕分け作業、ホンダ自動車の生産ライン、4tトラックでのルート配送、パナソニックのデジタルビデオカメラの生産ライン、ニュージーランドのマウントハットを拠点としたスキーツアーのお客さんの現地スタッフなどなど。

冬は、奥只見丸山スキー場(新潟)に白山中宮温泉スキー場(石川)、あずまスキー場(福島)、最後にルスツスキー場(北海道)。

様々な場所で様々な職種を経験し、多くの人と出会いました。

このころの出会いと経験は、今でも貴重な財産です。

どれもはっきり記憶に残っていますが、トラックのルート配送は以外と楽しかったですね。

この中では最も人と接する事がない仕事ですが。

最初は、
朝4時頃に起きて会社へ。
トラックに乗って国立市の某食肉会社で食肉を積み込みスタート。
池袋のサンシャイン60にあるレストランから始まり、都内をぐるぐるまわります。
いつも“日比谷シャンテ”付近で路駐し昼食を食べ、午後からは千葉へ。
千葉もあっちこっちへ行き、埼玉も何軒かまわり、18時頃に狭山市の会社へ戻ってくるという
ものでした。

後半はルートが変わり、
夜スタートし、深夜に千葉の幕張へ。
そこで商品を積み込み、埼玉県内のダイエー系列のスーパーへ商品を搬入しお昼頃に会社へ戻るというコースでした。

この頃、当然ながらラジオにハマりましたね。

愛媛のいなかで育った者としては、仕事をしながら都心の様々な街と共存している満足感がありました。

家ではほとんど寝ているぐらいしか時間がありませんでしたが、なぜか充実していました。

まあとにかく、色々失敗やトラブル等もありましたが、気がついたら少しずつ北上していたのです。

そんなこんなで最終的に北海道へ上陸です。

つづく。

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2011年2月 6日 (日)

私の履歴書 その7

早いものでもう7回目なんですね。

さて、今回はフリーター2年目からです。

薬局バイトもそろそろ1年になろうかという頃、本屋で雑誌の立ち読み中ある広告を発見!

『吉本興行東京NSC ○期生 募集!』

確か2期生か3期生ぐらいだったと思います。

相方の二郎と相談し、受験する事に。

書類審査は2人とも無事通過。

続いて、当時銀座にあった『銀座7丁目劇場』でオーディション。

確か4〜5人ずつ面接的なものをやった記憶があります。相方とは違うグループでした。

で、2人とも合格!

今でこそ、お笑いブームでNSCには数百人いるようですが、当時は50人ぐらいだったように思います。それでも書類選考も含めると結構な倍率でした。

 

私はフリーターで失うものはナシ。ただ、相方は就職して6年ほど。

まずは私だけ東京へ行く事に。

相方は週末に愛知から通って来てました。(最初は有給とってしばらくいたんだっけな?)二郎は、スケジュール的にも金銭的にもかなり大変だったと思います。

1年前に上京し就職していたマスピーが住むアパート(会社の寮)へ家財一色を送り、遅れて私も転がり込みました。

大家さんにバレるまで1ヶ月ほどだったか、居候させてもらいましたが、マスピーにも随分迷惑をかけました。2人で思い出深い楽しい日々を過ごしましたが。

さて、当時のNSCは、港区赤坂のTBSの近くにあり、マスピーの寮から1時間ほどかけて通ってました。

基本的にネタは私が書いてました。時間もたっぷりあったので。

そんなこんなで3ヶ月ほど過ぎてでしょうか?(時期は定かではありませんが)

しばらく連絡が途絶えていた相方と連絡がとれ、相方は仕事を優先してNSCをやめることに。私にとってはベストの相方でしたが、受験したときから覚悟していたことなので了承。

しばらくピンで再スタート。

しかし、手持ちのお金が尽きてきたことで、NSCまで通う電車賃も捻出できなくなり、さらに、寮の大家さんにもバレてマスピーの部屋を出て行くことになり、確か授業料を半年分とか納める時期だったというのもあり、結局NSCを辞める事に。

色んな要素が相まって、次のステージへ。

東京から場所を移し、埼玉県の狭山市というところでアパートを借り新たな生活を始めました。

まずはバイトを探さないとということで、お隣川越市のスイミングスクールへ。

すぐに採用をいただき、2〜3日後には働かせていただいてたように記憶しています。

隣と言っても、自転車で40〜50分ほどかけてほぼ毎日通ってました。

特に水泳が得意だったわけではなかったのですが、幼児クラスをスタートに、ベテランのS村先生にみっちり指導していただきました。職員の方はみなやさしい人ばかりでした。

どこにいってもホントに人には恵まれていました。

このころはとにかくお金がなく節約生活まっしぐら。時間の経過と共に痩せていってましたね。

そんなことで、しばらくスイミングスクールでのバイト生活が続くのです。

つづく

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2011年2月 1日 (火)

私の履歴書 その6

大学生活編 +αです

サッカーは続けました。

大学ではなく、名古屋市のリーグで。

日曜日に練習もありましたが、ゆるい感じだったので楽しんでました。

それでもリーグ戦で好成績を残し、入れ替え戦にも勝ち、愛知県リーグに昇格しました。

その後どうなったかはわかりません。

さて、4年生になり、

1科目(確か化学)だけかなりヤバい状態で、留年も覚悟しましたが何とか卒業。

就職は?

愛媛県の教員採用試験を受験しましたが、見事にドボン。

高校野球の準決勝と重なり、道路が大渋滞。

遅刻です。

途中から受験させてもらいましたがもちろん×。

しかし、受験したおかげで、すぐに教員になることに戸惑いを感じる事ができました。

世間知らずで、生徒の前に立つのは恥ずかしいのではないだろうか?
まずは世の中に出て社会を知るべし!

ということで、無謀な人生が始まったわけです。

と言っても収入がないことには。

ピザ屋を辞め、ドラッグストアのバイトに。

いわゆるフリーターです。

当時、このフリーターという言葉が出始めた頃だったと思います。

その頃は、今みたいに当たり前の用にドラッグストアがあった時代ではありませんでした。ちょうど増え始めた頃かな?

薬剤師の部長や店長、バイト仲間には良くして頂きました。

結構汗だくで頑張ったかいあって、『社員にならないか?』と何度も誘って頂いたりもしました。確か軽自動車ぐらいだったら買ってやると言われた記憶もあります。

そこでは1年働きましたが、色々勉強になりました。

薬の事もよく教えてもらい、接客もできるようになりましたし、筋力もつきました。

薬局で筋力?

倉庫が店舗の2階にあるため、商品が入荷するたびに紙類(おむつ、ティッシュ、トイレットペーパー等)のダンボールを2〜3個(高さ1m半ほど)担いで、階段を何往復も。

液体(リポビタンD等)もなかなかの重さでした。

週に何度も入荷するのですが、そのたびに2〜3時間ほどぶっ通しでやります。

店舗の在庫が少なくなったら、また2階に行って、ダンボールを担いで降ろして来る。

とにかく1日何十階も上がったり下がったりしてました。

でも楽しかった。

あれから15年ほど経ちますが、今でも部長や店長とは年賀状のやりとりをさせてもらってます。

いつかお会いしたいです。

そして、もうすぐ1年が経過しようする頃、

ある雑誌の広告が目に留まり

一念発起で東京へ行く事に。

つづく

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2011年1月29日 (土)

私の履歴書 その5

大学生活編です。

愛知県豊田市にある中京大学へ。

豊田市というぐらいなので、町で走っている車の9割程度がトヨタ車でした。

市内に他社のディーラーはほとんど無かったように思います。

時代はポケベル全盛期。

携帯なんぞまだまだ。バブルがはじける前でした。

世の中浮かれてた時代です。

ディスコが流行ってましたな〜。

さてさて、大学生活のほうですが、

この4年間はとにかく色んな体験をしました。

両親には高い学費と仕送りをしてもらい、勉学よりも人生経験を学ばせてもらった感があります。

ホントに感謝です。

体育学部ということもあり、基本的にクラスは男ばかり。(授業によっては違いましたが)

男子も女子もジャージ姿。もちろん私もジャージ。

そういう意味では楽でした。

大学では珍しく、学校付近ではなく町の方に住んでいた私は、クラスの仲間よりバイト先の仲間と過ごす事が圧倒的に多かったのです。

なので、今でも年賀状のやりとりをしているのはごくわずか。

ということで、思い出の大半はバイト先である『ピザ・カリフォルニア(通称ピザカリ)』が中心です。

ピザカリの宅配バイトは3年半ほどやりました。おかげで、町の地名や道路、信号が変わるタイミングなどはもちろん、住所を聞けばだいたい場所がイメージできるようになりました。
地図を読む力も自然とつきましたね。

なので、今もナビは必要なし。

地図があれば日本全国どこでも不安には感じません。

さて、バイト先では愛すべきアホな仲間でいっぱい。

所属も年齢もバラバラで、でも仲がよく、飲みに行ったりすることもしょっちゅうでした。

その他色々と・・・

大学3年か4年か忘れましたが、当時長くつき合っていた彼女に振られ、激しく落ち込んでいる頃に、同じく彼女に振られて会社に内緒でバイト先に入ってきた二郎(社会人)と仲良くなりました。

 

それからというもの、ほぼ毎日のように彼と一緒にいました。今ではほとんど会うことができませんが、無二の親友です。

毎晩のように明け方まで白木屋や自宅で飲み、彼は私のアパートから会社へ出勤するという生活。

後に聞いた話によると、互いの母親は、私と彼の事をホモセクシャルなんじゃないかと思ったほどだったそうです。

まあそれほど仲が良かった。

年齢、血液型、星座が一緒。誕生日は2日違い。

息もぴったりで、2人ともボケてツッコムという絶妙のあうんの呼吸でした。

気持ちいいほど“間”が合いましたね。

そんなこんなで大学生活を終えるのです・・・

とはいかず、

実はもう1人途中から“振られ虫”が合流するのです。

人よりちょっぴり歯が出てる通称マスピー。

もちろん同じピザカリメンバーで私より古株。

二郎とも仲よしでした。

その後ビッチリ3バカトリオで過ごしました。

とにかく楽しかった。今思えば夢のような日々でした。

サッカー決勝が始まりそうなので、今日はここまで。

つづく

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2011年1月24日 (月)

私の履歴書 その4

いよいよ高校生です。

野球をやりたくて、県内でも強豪の西条高校へ進学。

実は、県下でトップクラスの進学校。

まずまずの感じで入学しましたが、対して勉強もしなかった私は、次第に校内の順位を落としていくのです。

で部活はというと、

何度か?(1度かも)野球部の練習を見せてもらいに行ったのを覚えています。

しかし、周りから強い反対をされ結局断念。(まあ最終的には自分の判断ですが。)

自信のあった野球センスと強肩は活かす事ができませんでした。

ちなみに中学の時のソフトボール投げでは、グラウンドの端から投げて反対側の体育館に掛けてあるネットに当たってしまい計測不能。『85mぐらいかな?」というざっとした感じで終わりました。

球速もそこそこありましたよ。

今では面影もありませんが。

さて、そんなこんなで結局サッカー部に入部。

この選択は以外に良かった。

リフティングすらまともにできなかったど素人でしたが、見事にハマりましたね。

理不尽な先輩にもへこたれず、仲間に恵まれ、超俊足FWとして頑張りました。

2年の時だったか、1度辞めようと思ったことがありましたが、同級生達が引き止めてくれたのを覚えています。また、ちょうどその頃の練習試合で、気持ちの良いゴールを決めたのも残ったきっかけでした。

練習試合ではそれなりにゴールを量産?してましたが、かなり荒削りで波があり本番に弱かった。

結局良い成績を残す事はできませんでしたが、この時のチームメイトは今でも宝です。

なかなか愛媛には戻れませんが、いつかまたみんなで酒でも飲みたいですね。

そろそろハゲてきてる奴もいそうだな〜。(ヘディング効果か?)

進学校故に、夏の総体予選が終わると、3年は引退し受験勉強に励むのですが、私とKは冬の選手権予選まで異例の残留。

後輩にとっては非常に迷惑な話です。申し訳ない。

で、結局秋になってようやく受験勉強。

明けても暮れても勉強勉強。

第2次ベビーブーム世代なので、偏差値に踊らされた時代です。

東海大、国士舘大、福岡大、中京大を受験し、中京大のみ合格!

最後の中京大まで全て不合格だったので、ハラハラドキドキ。

合格通知が届いた時のことは今でも覚えています。

確か、ダメだった時のことを考えて、親に内緒で体育関係の予備校の資料を取り寄せてました。

こうして、何とかかんとか中京大(体育学部体育学科)へ進学したのであります。

今思えば、高校時代は部活の思い出ばかりですね。

つづく

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2011年1月22日 (土)

私の履歴書 その3

1週間ぶりの“私の履歴書”です。

中学生になると部活動が忙しくなります。

小学生の頃、市内陸上競技大会のリレー選手に選ばれました。

チームは優勝候補で私は3番手。

トップでバトンをもらい懸命に走り、そのままアンカーの選手へバトンを・・・

しかし、バトンを渡す数歩手前で転倒・・・

結局優勝を逃し、申し訳なさと悔しさに包まれました。

何となくですが、未だにあのときの情景を覚えています。

あの時はつまずいたのか?足がからまったのか?

なぜ転倒したのかは、はっきりわかりません。

中学生になったら、大好きな野球をやるために野球部に入ろうとずっと思っていましたが、

結局、小学校の事が悔しくて陸上部へ入部。

当時の陸上部は、部員数もほとんどおらず生ぬるい感じでした。

私の代に何人か有望な選手が入り、自分たちでメニューを組んだりして、独自のトレーニングをやってました。

顧問もほとんど見に来ないので、キャッチボールなんかをして遊んでいた時期もありました。

私は小さい頃から足は速い方でしたが、飛び抜けていたわけではありませんでした。

それでもとにかく運動が好きだったので、ストイックに練習してました。

ある時、倉庫で棒高跳びのポールを発見し、いきなりチャレンジすることに。

最初は遊び半分でやってましたが、そのうちのめり込みました。

結局、3年生の最後の大会で市の新記録を樹立し、ハードルとリレーと共に県大会への出場が決まりましたが、出発の数時間前に、練習で左手首を骨折し、県大会へは出場できませんでした。しかも、最後の1本と決めて飛んだ時にやってしまったので、ショックも大きかったですね。

2年生ぐらいからストイックに追い込んだせいか、3年の途中から、急激に足が速くなりました。

当時で50mを5秒7ぐらいで走ってました。100mだと、10秒台近くまでいったと思います。

仲間に恵まれ楽しい部活生活でしたが、小学校でも中学校でも、陸上では良い結果は得られませんでした。

その他、文化祭では友人とステージで漫才をしたりもしました。

後、このころの制服は、ボンタンやら短ランやらが流行りましたね。

校内暴力や、他校とのけんかやらで荒れてた時代でもありました。田舎だからかな?

1年半つきあった彼女もいました。(卒業式にふられましたが)

部活は違えど、幼なじみとは変わらず仲良かったですね。

とにかく色々あって楽しんだ中学時代でした。

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2011年1月15日 (土)

私の履歴書 その2

お久しぶりに『私の履歴書』です。

3歳から高校卒業の18歳まで、愛媛県の西条市で育ちました。

西条市も今では、周りの市や町と合併したらしく、随分大きくなったようです。

名水百選にも選ばれる『うちぬき』と呼ばれる湧き水が豊富で、水道水がミネラルウォーターという恵まれた環境でした。もちろん水道代もタダ。

西条を出た時に、おいしい水のありがたさを感じたのを覚えています。

秋の西条祭りは体に染み付いています。

もう何年も帰ってませんが、今でもビデオ等で太鼓の音を耳にすると、鼓動が高鳴り一気に祭りモードになります。

小さい頃から近所には、同世代の友達がたくさんいて、外が暗くなるまで田んぼや川などで遊んでました。ドッジボールや缶けり、かくれんぼ、メンコ何かもよくやってましたね。

川では、フナやハヤ、ザリガニ、メダカ、オタマジャクシ、ヤモリ、イモリなどを穫ってました。

夏はカブトムシやクワガタを父と弟と早朝に穫りに行ったりもしました。

小学校にあがると、毎日の様に同級生の幼なじみ達と遊びました。私の町内には結構同級生がいたので、メンバーには困りませんでしたね。

野球が好きな少年でした。

いつもみんなで野球かソフトボールをやってました。高校野球も大好きでした。

ファミコンやゲームウォッチが出たのも小学校の時ですね。懐かしい〜

漫才ブームもこの頃で、漫才が大好きな少年でした。

「やすしきよし」に「B&B」、「おぼんこぼん」、「ツービート」、「ザ・ぼんち」、「紳介竜助」、「セントルイス」などなど。

確か5年生ぐらいに、学級通信みたいなものを独自に出させてもらって、そこにいろんな漫才師のネタを書いて、みんなの前で読んだりしてました。

お昼休みはドッジボールが大ブーム。

給食を食べ終えたら、われ先にすごい勢いでグラウンドへ行くんです。

場所取りに。

これに負けると、お昼休みの遊び方を変えなきゃいけない。教室とグラウンドの位置関係も大事でしたね。遠いと不利なので。

色々思い出しますね。

高学年になると、女の子と交換日記をしたりといったこともありましたね。

まあこんな小学生でした。

つづく

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2011年1月11日 (火)

私の履歴書 その1

ふと思いつき、これまでの私の履歴書を綴ってみることにしました。

特に何かの節目というわけではないのですが、

ホントにただの思いつきです。

数回に分けて綴っていきます。

もしよろしければお付き合いを。

・・・

昭和47年(1972年)7月31日

愛媛県八幡浜市の病院で産まれました。

もちろん覚えていません。

今はもうその病院はありませんが、玄関前に“しょんべん小僧”の銅像があったのを覚えています。

産まれながらにあまり体は丈夫ではなく、

風邪をこじらせて肺炎になりかかったと聞いています。

小学校高学年まで、“小児ぜんそく”や“アレルギー”にも苦しめられた記憶があります。

八幡浜市は母親の実家があり、私の好きな場所の1つです。

川で魚やうなぎを取ったり、じいちゃんのみかん山でみかんを取ったり、栗を拾ったりと自然の中でおもいっきり遊んでいたように思います。

夏祭りの“柱祭り”や“港の花火大会”も印象的です。

王子の森公園にもよく連れてってもらいました。

五右衛門風呂も懐かしいですね。

そういえば、じいちゃんが鶏を絞めていたのも覚えています。

あれは子どもながらに衝撃的でした。

生後は、父親の実家がある新居浜市で2歳まで育ったそうです。

その後西条市に家を構え引っ越しました。

3つ離れた弟も産まれ、4人家族が完成したわけです。

つづく

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